旅順要塞の攻防戦と日本海海戦
第3軍は乃木希典を司令官として、旅順港を防御しているロシア軍の旅順要塞を攻撃し壊滅させるという作戦任務を負っていた。この旅順港は、ロシアの太平洋艦隊が母港としていた要な軍港で、港を護るために周囲に強固で大規模な要塞が築かれていたのである。
第3軍は8月から要塞の最重要拠点であった203高地への攻撃を開始したが、ロシア軍の頑強な反撃にあって容易には攻略出来なかった。10月に第2次、翌月に第3次の総攻撃をかけ、さらに日本海軍も
日本海軍と対決する作戦をとった。
この情報を探知した海軍参謀本部は、予備役にいた東郷平ハ郎を呼び戻して連司令官に任命し、艦隊の総力をあけてこれを迎撃するよう準備を指示した。
東郷は日本近海で迎え撃つことを決め、艦隊の参謀たちと作戦を練った。ロシア艦隊がウラジオストクに向かうには対馬海峡を抜けるか、あるいは迂回して津軽海峡を通るか2つのコースがあるが、参謀たらの意見は分かれて最後まで問題となった。東郷は最終的に対馬コースをとり、艦隊の全艦に準備を命じたのである。
港外から艦砲射撃を加えて陸軍の攻撃を援けた。
その結果、年を越した1月1日に 漸く旅順要塞の露軍を降伏させたのであった。東郷の予想した通り、バルチック艦隊は対馬海峡を目指して姿を現し、5月27日に対馬海峡で遭遇した日露の両艦
隊は夜を徹して激烈な海戦を続け、翌28日に
敵艦隊のほとんどの艦を撃沈または大破し、日本海軍が勝利したのであった。
上に述べたような経緯で旅順港と太平洋艦隊の多くの艦船 を失ったロシア海軍は、戦況の打開と極東での制海権を奪回するため、最強のパルチック艦隊をウラジオストクに回航させて、
日露戦争とその背景
この戦争は日清戦争から10年後の明治37年2月から翌年の5月まで、1年3カ月にわたって日本とロシアが朝鮮と満州および日本海で戦った戦争である。
日本政府は日清戦争の終結以後、朝鮮半島を足掛かりにして中国東北部の満リ申に進出する意図をもっていた。一方のロシアは、明治33年に起こった「北清事変」の終結後も満州からの撤兵を行わず、中国東北部一帯を独占的に支配するとともに、朝鮮半島へ進出する姿勢を明確にするようになっていた。
このような状況によって次第に両国間の緊張が高まり、その打開のために明治36年8月から数回の交渉が行われたが、双方の主張は平行線のままで妥協に至らなかった。
当時の政府は第一次桂太郎内閣で、桂は上のような成り行きから、以後のロシア政府と
の交渉は無理と判断したのである。
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<上甲板右舷中央から後甲板を望む>
上甲板で艦前方を向く逆L字中型の赤色煙突はベンチレーターです。用途は主にエンジンのボイラー燃焼用空気の取入れと艦内の熱や排気ガスの換気です。図面上14箇所設置されていたようです。
<上甲板中央付近>
艦船のエンジンルームは大量の熱と排気ガスを発生させます。そのため、艦内の換気システムは非常に重要です。 ベンチレーターの数や位置は、エンジンから発生する熱や排気ガスを効果的に排出し、乗組員の安全と快適性を維持するために設計されています。
<上甲板前甲板>
このベンチレーターの数や大きさ、位置は、軍艦の運動性能にも大きく影響します。