日本海海戦の歴史的意義
明治38年5月27日、東郷平八郎大将率いる連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を対馬沖で迎撃し未曾有の勝利を収めたことによりロシアは継戦意欲を失い、アメリカ大統領の仲介で米国ポーツマスにおいて日露講和条約が締結されました。
日露戦争の勝利により、我が国は独立を全うし国際的地位を高め、また、有色人種として蔑視され、抑圧、蹂躙されていたアジア・アラブ諸国に希望を与え、独立の気運を促進しました。
当時16歳であったインドの独立運動家で後に首相となったネルーは、日本の勝利に血が逆流するほど歓喜し、インド独立のため命を捧げる決意をしたと自伝で述べ、また、次のように子供に話したと伝えられています。
(公益財団法人 三笠保存会)
日露戦争での犠牲者
この戦争では、陸・海軍合わせて延べ約30万人の将兵が動員された。この中で、不幸にして戦死と戦病死した人数 は55,660人で、この数は出征者全体の約19%にも及んだ。また病死者は27,190人で、上の数字と合わせると約28%の人々が戦没者という大きな犠牲を生んだ。さらに負傷者にいたっては154,560人という多さで、何事もなく無事に帰
還できた将兵はわすか22%に過ぎなかった。
以上のような数字を見ても、日清戦争に比べていかに日露戦争での戦闘が過酷なものであったかが分かる。
厚木地方から出征した軍人の正確な人数は不明であるが、戦没者は全体で70人、内訳は以下のようになっている。厚木町(秦市蔵氏の他1人)、依知村(吉田喜一郎氏の他7人)、荻野村(綱島市太郎氏の他8人)、睦合村(柳川積太郎氏の他13人)、小鮎村(高橋五郎氏の他5人)、玉川村(前場半次郎氏の他5人)、南毛利村(鈴木太之助氏の他8人)、相川村(鹿意元治氏の他15人)
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東郷平八郎元帥と乃木希典大将は渋谷氏の血統
相模守平良文の血筋で河崎冠者基家、同平太夫重家などは武蔵国橘郡方面に勢力を張っていたが、次代の重国が高座郡渋谷庄(現藤沢市)に本拠を移して在名を称えた。重国は平治の乱後に訪れてきた佐々木秀義父子とも婚戚を結び、基盤の強固を図った。
和田合戦では和田方に味方し、高重、武重父子をはじめ一族8名の討死の記録があり、渋谷庄を失った。続いて起こった三浦氏の乱後、光重は長男重直だけを渋谷に残し、残り5人の子と共に薩摩国に下向し、周辺地を支配することとなる。明治期の東郷平八郎元帥は実重の系統、同じく乃木希典大将も渋谷氏なので、二人は同じ血筋の人ということになる。