縄文時代は、約15,000年前~約2,300年まで続いた時代です。勝坂遺跡で縄文時代の集落が栄えていたのは約5,000年前の縄文時代中期と呼ばれる頃でした。
縄文時代の人々は、狩りをした動物の肉や、集めた木の実などを食料にして生活し、それらの調理には土器が使われたため、遺跡からは破片となった多量の土器が出土します。 また、勝城遺跡の西を流れる鳩川沿いの谷からは、当時の地層からクリの花粉が見つかっており、大事に育てられたクリが、食料、建築材などとして利用されていた可能性があります。
当時の住居は、地面を掘りくぼめて床とし、柱を立てて屋根でおおう竪穴住居(たてあなじゅうきょ)と呼ばれるもので、床に石を敷き詰めた敷石住居(しきいしじゅうきょ)も発達します。勝坂遺跡では、このような住居が大きくみて4か所に集まって集落となっていたことがわかっており、それぞれの集落には広場や墓地などがあったと考えられます。
土偶はひとを象(かたど)っているため、縄文人をある程度表していると考えられます。特に具象的(ぐしょう)なつくりをする中期前半の勝坂土偶様式を見ると、髪を盛り上げたり、巻き上げたりしたように、髪を結ったような細かいつくりの土偶がよく見られます。晩期の土偶には耳飾(ピアスのように耳たぶに入れ込んだもの)を付けたものも見られ、中期でも土製耳飾が出土しており、縄文人のオシャレをかいま見ることができます。
縄文土器土は、こねて器の形にして焼き固め、食物の保存容器として、また、煮炊きの容器として使われました。土器は、最初の「工業製品」といえる。
煮炊きすることで、肉などやわらかくうま味が出て消化しやすくなり、キノコや堅果・根茎などの渋みやあくが抜けたり、やわらかくなりました。
もっとも重要なことは病原菌を殺菌できたことです。煮炊きすることで、病原菌を殺すことができました。
縄文時代を代表する土器の一つ。立体的、彫刻的で豪快、奔放な趣きがある。大山拍によって市域勝坂から発掘され、後に山内渭男らによって「勝坂式」と名づけられた。縄文中期の中でも加曽利E式よりも古く、阿玉台式に時期的に近いという、土器編年上、確固たる位阻を占めるに至った。
文様面で他の土器に比し多くの特徴があるが、特に顕著なものをあげると人面装飾把手と蛇体装飾文である。人面把手は比較的平らな煮沸用土器の把手として付されていることが多いので、食物を味わう喜びの表情をしたものと受けとられている。顔が外向きに付いているのが勝坂式の特徴。
蛇文の方は、顔が三角に近いことからマムシの文様ではないかと言われ、マムシに対する恐怖と畏敬、つまり、呪術と祈りを蛇体文を通して表現したのであろうとされている。