国の史跡。昭和49年7月2日指定。同55年10月22日及び59年1月11日に追加指定。縄文中期遺跡として知られ、大山柏の大正末の調査以来、ほぼ50回にわたる発掘調査がなされ、その都度報告書が出されている。主なものは次の通り。神奈川県下磯部村勝坂異物包含地調査報告昭和2、大山柏(現在のA地点の中央部辺り。但しこの調査では住居跡は出土しなかった)
相模原市史第一巻 昭和36年、岡本勇/勝坂遺跡B地区調査概要昭和49年、小川裕久他/勝坂D地点調査概報昭和50年、大川清他/国指定隣接地遺跡確認調査
昭和54(第18次)青木豊/勝坂遺跡範囲確認緊急調査報告書昭和56年/勝坂遺跡範囲確認緊急調査報告書昭和56年(21次)江藤昭。これらの結果、ABCDEFといった地域にわたる相当に広大な遺跡範囲が確定され、住居跡、石器、土器類等々の貴重な埋蔵文化財が明らかとなつた。
土器が多いという特徴もつきとめられた。住居跡も勝坂式住居跡よりも数の上では加曽利E式住居跡の方が多い。平成に入っても、平5年の第45次調査(市道磯部上出口改良事業に伴う調査)、平8の第47次調査(市道磯部30号他一道路改良事業に伴う調査)等々が断続的に行われつつある。
(『相模原事典(かいていばん)』涌田 佑・涌田久子著より)
勝坂の地は、川や湧水の流れる谷戸とそれらに分断された段丘面がいくつかに分かれ、起伏に富んだ複雑な地形をしています。これまでに大小合わせて90次を超える調査を実施し、全域で150軒以上の住居が発見されています。これらは、住居址の分布のまとまりからいくつかの集落に分かれ、勝坂遺跡が大きな遺跡群であったことがわかります。
遺跡公園がある勝坂遺跡D区は、北集落と南集落に分かれ、公園で縄文集落の歴史的な景観づくりを行っているのが南集落になります。また、大山先生が調査し、「勝坂式土器」発見の地となったのが、D区南集落から谷戸を挟んだ対岸のA区集落になります。D区北集落の北側には、多くの勝坂式土器のほか、クルミ形土製垂飾(だれかざり)などの特殊遺物が出土した磯部山谷(いそべさんや)遺跡の集落が分布します。また、鳩川右岸には、古い段階の勝坂式土器を伴う土坑墓(どこうぼ)が発見された磯部宮際(みやぎわ)遺跡の集落が分布します。
勝坂遺跡群における集落間に社会的な関係などはほとんどよくわかっておりません。ただ、当時において、この地が縄文的一等であったことは間違いなさそうです。
(相模原市)
勝坂遺跡の調査の歴史は古く、大正15(1926)年にまでさかのぼります。その年の夏に休暇で帰省した学生の清水二郎さんが、中村家当主であった中村忠亮氏の所有する畑に散在していた多くの土器を見つけ、考古学者の大山柏先生に標本として渡したことが発端です。大山先生は同年10月3日に、
勝坂の地を訪れ、最初の発掘調査が行われました。多数の石器(打製石斧等)や、完全あるいは、それに近い土器と顔面握手その他多数の土器の破片を採集しました。このとき発見された厚手の土器が注目され、後年、「坂式土器」として、中部・関東地方の縄文時代中期の指標となりました。
「勝坂式土器(かっさかしきどき)」をはじめて見つけた大山柏(かしわ)先生は、陸軍元帥大山嚴(いわお)公爵の次男で軍人であるとともに考古学者でありました。調査のきっかけは大正15年(1926年)の夏、偶然大山先生の手元に中村氏所有の畑地から二片の土器が持ち込まれたことによります。
土器が出土する場所は浅く、密集した部分では耕作も困難なほどであったということから、強い関心をもちました。
発掘調査は同じ年の10月3日、わずか一日の期間ではありましたが、多数の石器、
勝坂式土器の発祥の地である史跡勝坂遺跡公園では、毎月定例的に相模原市教育委員会文化財保護課による縄文時代の体験、学び、遊べるイベントが行われています。
また、毎年11月3日には同公園で、教育委員会並びに勝坂自治会連合会の主催による火おこしゲームやネイチャーゲーム、昔の食事体験など様々なプログラムで繰り広げられる勝坂遺跡縄文まつり(楽しい縄文体験ムラ)が開催され、多くの親子連れで賑わっています。
とくに打製石斧とともに完全な形になるような土器11個、顔面把手を含む多数の土器が出土しました。
大山先生は勝坂遺跡の調査をしたことによって、3つのことを提案しました。
1.勝坂式土器の発見
2.多量の打製石斧(だせいせきふ)→農耕用の石鍬(いしぐわ)と考える
3.多量の石器の出土、とくに打製石斧(だせいせきふ)に注目
→原始的な農耕の存在を指摘