日清戦争
 1894(明治27年)7月25日~1895年(明治28年)4月17日
日清戦争と日清媾和条約

19世紀後半の東アジア情勢】
①欧米の植民地支配と不凍港を求める南下政策ロシアの脅威

欧米は産業革命の急速な近代化に伴う国内問題を抱えていた。 利益追求による長時間労働、工場環境の不衛生、資本家階層と労働者階層の分化と対立、製品の過剰在庫、生産原料不足

近代化の問題の一部を、自国の外で解消するために、安い原料の確保や自国生産商品の独占的販売市場を探していた。

欧米列強は武力で脅す「砲艦外交」によりアジア諸国を開国させ、不平等条約で経済的利益を得る植民地獲得競争に乗り出す。例:日本のペリー黒船来航と日米修好通商条約

軍事力で欧米に劣るアフリカやアジアは格好の標的

ロシアの南下政策は不凍港の獲得以外にも、貿易路の拡大、エネルギー資源の確保、他国に対する地政学的影響力の強化が狙い








         アヘン戦争
 (写真右のイギリス軍艦が中国の反戦を破壊)

 清のアヘン戦争と日本の近代化及び富国強兵
18世紀前後イギリスが清からの茶の輸入を始めた。イギリスはメキシコやスペインで買入れた銀で茶を購入し、やがて植民地インドで栽培させたアヘンを貿易の代価として利用し、衰退期の清に無抵抗で受け入れられた。清の道光帝はアヘンの販売、吸飲のいずれも死罪の厳禁政策を採用したため、1840年イギリスとのアヘン戦争が始まる1842年に清はイギリスと南京条約を締結し香港を割譲して開国した。(中国分割の始まり)
      漢委奴国王印(志賀島出土)           (かんのわのなのこくおういん)
<日本の富国強兵への道>
 アヘン戦争での清の敗北は、日本幕末期の指導者や知識層に多大な衝撃を与えた。米国ペリーの来航を契機として徳川幕府体制が崩壊し、明治維新という近代化の波が起こり、日本は富国強兵へと進んでいった。



  漢委奴国王印
中華秩序による宗属関係
 朝鮮は中国の中華秩序による宗属関係にある朝貢国です。そのため、自国内の治安や外的防衛などを清の軍事力に頼っていました。日本では起源57年に奴(な)国 の使者が後漢光武帝の元に朝貢して金印を受領しました。1401年征夷大将軍足利義満が明に朝貢して「日本国王」の称号を獲得して、中華皇帝に臣従する外臣として認知され、華夷秩序における国王として承認されたことがあります。


        太祖光武帝(後漢)

<参考>中華秩序(または華夷秩序)とは
  中国が中心の中華思想は、世界を「華」(文化的に優れた文明)と「夷」(未開で野蛮な外部)に二分する見方をします。特に「華夷秩序」と呼ばれる概念は、周辺国を中国の「属国」と位置づける枠組みとして発展し、朝貢貿易等を通じて具体化されました。弱肉強食的な欧米秩序に対し、軍事的支配ではなく、皇帝の徳による強制的でない宗属関係で成り立っていました。





 冊封体制の世界は漢字文化圏にほぼ合致し、中国・朝鮮・日本・琉球国・日本では紀元57年に奴(な)国王の使者が後漢光武帝の元に朝貢して金印を受領し、1401年には征夷大将軍足利義満が明に朝貢して「日本国王」の称号を獲得し、中華皇帝に臣従する外臣として認知され、華夷秩序における国王 として承認されたことがあります。

日清戦争回線図
(西洋式海軍)
日清戦争成歓襲撃和軍大捷之図




 1894(明治27年)に起きた東学党の乱鎮圧のために、わずかな兵力しか持たない朝鮮は清に出兵を要請しました。甲申事変後の清との申し合わせ(天津条約)に従い、日本も日本人居留民保護を目的に出兵しました。
  日本出兵を危惧した朝鮮政府は急いで東学党と和睦し、6月11日までに農民軍を解散させ日清両軍の速やかな撤兵を求めました。
 日本政府は朝鮮内乱が未収束、乱民発生は内政問題であり、安全保障のための内政改革の必要性を唱え、15日に日清共同の朝鮮内政改革案を清国側に提示しました。清国政府はこれを拒絶し、日清の同時撤兵を提案します。
 日清両国は朝鮮における主導権を巡って対立し、1894年(明治27年)7月に豊島沖で砲火を交え、8月1日に日本の宣戦 布告で日清戦争が始まりました。戦場は朝鮮のほか遼東半島にも広がり、陸戦でも 海戦でも日本は清に圧勝して、明治28年(1895年)4月17日、下関にて日清媾和条約を結びました。
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