長勝寺・妙法寺と並び日蓮の鎌倉での布教の中心となった松葉ヶ谷草庵跡とされ、松葉ヶ谷霊跡安国論寺とも言う。
開山は日蓮とするが、弟子の日朗が1260年に、日蓮が前執権北条時頼に建白した「立正安国論」を執筆した岩穴(法窟)の側に安国論窟寺を建てたのが始まりである。
日蓮上人の鎌倉草庵の地。
日蓮が世間をあっと言わせた出来事があった。極楽寺の忍性との雨乞い競争で、まづ忍性が祈り始め、七日の内に雨を降らせると公言したが、結果はさんざんで、七日たっても一滴の雨も降らなかった。忍性と数百の供僧たちが更に24日間祈りに祈ったが、ついに雨は降らなかった。日蓮はこれを見て、民をかわいそうに思い、一人で七里ヶ浜の田辺ヶ池の畔で読経したところ、たちどころに雨がしとしと降り出し、異常乾燥も終止符を打ったという。この一件が敵方をより過激にし、激しい迫害を受ける一因になった。
裏山の富士見台からは由比ガ浜海岸を含む市内を一望できる。
開:9:00~16:30 休:月曜 境内:100円。
日蓮が鎌倉に来て初めて道場とした岩穴を御法窟(ごほうくつ)といい、『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』もここで書いたといいます。昔は「日蓮窟(にちれんくつ」と呼んでいました。
この法窟がこの寺の造られるもとになったので、開山は日蓮になっています。また寺の名は『立正安国論』を書いたことからきています。
この場所に寺ができたのは日蓮の第一の弟子日朗(にちろう)が法窟のそばに建てた「安国論窟寺(あんこくろんくつじ)」がそのはじまりです。その後、池上本門寺(いけがみほんもんじ)11世日現(にちげん)が「要法寺(ようほうじ)」を建てました。のちこの2寺がひとつになって、「安国論寺」と呼ばれるようになったといわれています。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
寺地は松葉ケ谷法難の跡と伝える。本堂のほか、御小庵・庫裡・山門・熊王稲荷大明神尊殿などが伽藍を形造っている。日蓮が寵って『立正安国論』を執筆したという巌窟も残る。本堂の本尊木造日蓮上人坐像は昭和三十八年の造立。建物も新しい。御小庵の本尊は『立正安国論』を書いている姿を形どった木造
日蓮上人坐像。これら以外、鬼子母神および十羅剃女立像・七面大明神立像・大黒天立像・日朗上人坐像などの木造像もまつられている。熊王稲荷大明神尊殿の本尊は木造稲荷明神騎狐像。他に古文書・絵画等も伝わる。(三山)「鎌倉事典」白井永二編より