平和祈念展示資料館(総務省委託)
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 南方の島々が、戦争で死ぬよりも、病気と飢えで死んでいった人が多いんですよ。それだけ日本の兵隊って兵站(へいたん:戦場の後方にあって,作戦に必要な物資の補給や整備・連絡などにあたる機関)を考えてないんですね。武器だとか食料をどうやって調達するかって。戦地に行かすだけ行かして、あとは「自活しろ」って、いい加減な話ですよ。
 ここから1,100万kmですよ。しかも、この当時はシベリア鉄道って単線だったんで、あちらから来る物資を運んだり、捕虜を運んだりする。入れ違いになると、いつでも引き込み線で止まったりしなきゃならないので、1ヶ月かかってウクライナに来た。今はシベリア鉄道って1週間で、このウラジオストクからモスクワまで行きますよ。1週間で、でも1週間、すごいですよ、まあね。1万kmくらいあるわけだから、だから、逆に言ったら本当に大変ですよ。
収容所の主なところです。カムチャク半島からですよ。シベリア、北極海です、こんなところ。一番西の方はこの辺にウラル山脈があって、こちらはもうヨーロッパのロシアというところですね。カスピ海、黒海まであります。ウクライナまで、平和記念展示資料館の語り部の人で、ウクライナまで送られたという方がいます。








 これソ連がくれたんですけど。くれたとは言っても、元は満州日本の軍隊が持ってたものです。捕まったのは8月15日でしょ、だから日本の兵隊は夏服なんですよ。それで収容所に連れて行かれるのが10月に、ところが10月から11月もシベリアは冬なんですよ。とてもじゃない。「じゃあお前たちに冬服をやろう」って言って、満州の服をくれたの。ところが満州とシベリアと、またマイナス10度、20度違うから、これでも寒い、だから中にいろいろ新聞というか、セメント袋の紙を入れたりしていたんですよ。
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