旧中村家住宅
  標高:58.8m
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 旧中村家住宅主屋は全国的にも珍しい幕末期の和洋折衷住宅です。建てた大工は鎌倉大工の石井甚五郎で、10年の歳月をかけ完成したと伝えられています。
 創建当時はもっとカラフルで、屋根は赤瓦を使った赤色、1階外壁の漆喰は群青色、柱は朱色で塗られていたといいます。当時、横浜港が開港し、洋館が建てられ、カラフルなイメージがあった洋館を見た家主が、大工に頼んで見よう見まねで作らせたと想像されるます。
 建築当初は3階建てでしたが、関東大震災後、3階部分は取り除かれ2階建てとなっています。建築を手掛けたのは鎌倉大工の石井甚五郎で、10年の歳月をかけ完成したと伝えられ、板に記した詳細な設計図が残されています。
 建物の特徴は、1階の外観は和風的ですが、2階は外壁を海鼠(なまこ)壁とし、洋風の要素として軒を曲線の白漆喰で塗り込め、正面には縦長の窓が配してあります。
 また、長屋門は桁行63尺(約19m)の長大なもので、主屋と同時期の慶応年間(1865〜1868)に建てられたと推定されます。
※海鼠壁……壁に四角い瓦を斜めにならべ、その継ぎ目を漆喰で盛り上げて白く塗ったもの。

 関東大震災(1923年)を機に3階部分を減築して2階建てにしたという。

 創建当時は、現在よりもっとカラフルで、屋根は赤瓦を使った赤色、1階外壁の漆喰は群青色、柱は朱色で塗られていたという。課の担当者は「横浜港が開港し、洋館が建てられた。カラフルなイメージがあった洋館を見家主が、大工に頼んで見よう見まねで作らせたと想像される」という。
 中村家の先祖は江戸の初期に相模川対岸中津から移住したと伝えられています。勝坂の丸山から西へかけて広大な土地を所有し「勝坂大尽」と呼ばれていました。近くの石楯尾(いはだてを)神社を中興したり、勝源寺の開基(村民伊右衛門)となったのもこの家系の人々です。
 当時の中村家は、周辺の養蚕農家をとりまとめて商いをする立場で、近辺の資産家の中でも飛び抜けた存在だったようです。

 養蚕(ようさん)業とは桑を栽培し、蚕を飼い、生糸を作ること、及びこれに関係した仕事を意味する。昔は、これらの仕事がいずれも農家の副業として家内的に行なわれいましたが、文化の進歩とともにその業態が複雑となり、漸次分化し独立して来ました。その中にあって蚕種は特殊の技術と設備とを要し、製糸は工業化し、生糸の販売も多く貿易業者に委ねられたため、残された栽桑(さいそう:桑を栽培すること)から収繭(しゅうけん:蔟(まぶし)から繭(まゆ)をかきとり、毛羽を取り除いて収穫する作業)までの仕事を普通に蚕業又は養蚕業と呼んで我国の農業の重要な位置を占めていました。
 養蚕農家の戸数は1954年をピークに、1965年にかけて急速に減少し、1995年にはゼロに落ち込んでいるそうです。
 敷地の入り口にある奥行き4.5㎡、幅1Mの長屋門をくぐると、2階建ての洋館のように見える家が立っている。
 1階の庇の屋根は鮮やかな青色の瓦。
 2階の外壁は、洋風な縦長の窓が、白い斜めの格子と黒の漆喰で固めた「なまこ壁」にはまっている。




 内部は純和風。正方形の部屋が四つ並んだ「四間取り」の作りです。
 1階に入ると、建物を支える大黒柱は一辺が45cmと太く、部屋を仕切る障子の上部に設けられた「差鴨居(さしかもい)」は天地48cm、厚さ13.5cmの分厚さだ。天井格式の高い「格(ごう)天井」。外の式台から座敷に入る所の障子には、幕末に輸入されたと考えられる貴重な板ガラスが今も使われている。
 畳敷きで上部小壁は群青色の漆喰塗、天井は木目のおもしろい板を使った格天井です。