法華堂跡
1247年6月5日、三浦対北条・安達の宝治の乱のおり、三浦泰村は館を攻められ、一族を率いて、この法華堂に立て篭もった。北条時頼の兵に攻められ、終に泰村、光村以下の三浦一族と此れに加担した島津、毛利を含めて500人が、この法華堂で自害した。
大江広元、毛利秀光(大江広元の四男…長州藩主・毛利氏の祖)、島津忠久(薩摩藩主・島津氏の祖)の墓。
島津忠久の墓は1779年に修造、大江広元の墓は1823年に造られたもの。薩長同盟が1866年、もと鎌倉御家人で、三浦一族が亡んだとき、大きな打撃を受けた両家を先祖とする長州と薩摩が、江戸後期においても、なんとなく親近感が残っていたのでしょう。それが、明治維新に手を結んだ一因になったのでしょうか。なお、毛利秀光の墓は元々は鶴岡八幡宮の西にある「志一稲荷」の近くにあり、大正時代になってここに移されました。
発掘調査の結果、ここには北条義蒔(よしとき)の法華堂(ほっけどう)があったことが確認され、国の史跡となりました。義時は北条時政(ときまさ)の子で、鎌倉幕府の執権(しっけん)として、承乱で朝廷を破って幕府政治を確立しました。
法華堂跡の奥の左側にやぐらがあり、中に五輪塔(ごりんとう)がならんでいます。これは、鎌倉時代次前半に大きな勢力を持った三浦一族の墓といわれています。
やぐらの先に鳥居があり、その奥には二列になった石段があります。鳥居をくぐり、石段を上りつめると、石垣に囲まれた中に、古墳時代の末期にみられる横穴墓を改装したやぐらが三つ並んでいます。左側が、大江広元(おおえひろもと)の子で、後の中国地方の大名の毛利(もうり)氏の祖といわれる毛利季光(すえみつ)の墓といわれます。中央に源頼朝の招きで鎌倉に来て、公文所や政所(まんどころ)の別当として幕府の政治を進めた大江広元の墓といわれるものがあり、そして右側に頼朝の子といわれ、後の南九州地方の大名の島津(しまづ)氏の祖といわれる島津忠久(ただひさ)の墓といわれるものがあります。しかし、五輪塔は近世のもので、江戸時代末期に大名の毛刊氏や島津氏が整備したと見られます。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
次
頁
へ
三浦一族の墓。 大蔵法華堂は、源頼朝の墳墓堂であり、鎌倉武士達の精神的なよりどころの場となっていた。そのため、三浦一族がここを最後の場所として選んだのでしょう。
登っていくと、大江広元、毛利秀光(大江広元の四男…長州藩主・毛利氏の祖)、島津忠久(薩摩藩主・島津氏の祖)の墓があります。
石碑の亀に特徴があるとか