祭神は、宇迦御魂神(うかのみたま)のほかに、大己貴神(大国主命の別称)、佐田彦命、大宮主命、事代主命の四神。
鶴岡八幡宮の境外末社で、鶴岡八幡宮が非常の際の御旅所(神輿が本宮から渡御して仮に鎮座するところ)であったようです。
年少の頃「佐殿」と呼ばれていた源頼朝が、伊豆の蛭ガ小島に流されていた頃、ここの稲荷神が翁の姿に化けて夢枕に立ち、挙兵を勧め助けたということから「佐助」稲荷の名がついたと伝えられている。
古びた朱塗りの鳥居が幾重にも立ち並びんでいる風景はドラマなどにも良く使われる場所で狐の石像が何体もうずくまっています。
最近では頼朝と政子の伊豆での恋にあやかって恋愛成就で人気がある。
稲荷とは、宇賀御魂命の別称の御饌津神(みけつかみ)を三狐神と書き誤ったこと、稲荷の本地、荼枳尼天(だきにてん)が狐霊の夜叉(やしゃ)であるとされたこと、また狐に対する民間信仰などが結びつき、狐が稲荷明神の使いと信じられるようになったことによる。(日本国語大事典より)
下社と社務所
「縁結び観音」尼赤松幸運が彫ったという。
十一面観音は、十一の小面をつけた観音様で、十一の面はすべての人々を救うために、四方八方を見つめており、救済の働きが多面的であることを象徴しています。
佐助稲荷神社の下社と社務所があります。
さらに行くと、奉納された鳥居やのぼりが立ち並ぶ参道の両側にたくさんの狐の置物がありその突き当たりに急な石段があります。その石段を上ると杉木立の中に拝殿が建っています。その裏手の石段を上がると本殿があります。
境内は巨木が空をおおい、昼なお暗く静まりかえり、人里離れたかくれ里のふんいきがただよっています。
この佐助稲荷には、次のような話が伝えられています。
源頼朝が、
伊豆の蛭ケ小島に流されていたとき、夢を見ました。
ひとりの気高い老人が現われて。
「あなたは清和天皇に始まる源氏の直系の子孫なので、早く兵を挙げ、平氏を滅ぼして天下を統一しなければならない。その時期が来たことを知らせに来た。」
というのです。頼朝が、
「あなたはどなたですか。」
と尋ねますと、
「わたしはかくれ里の稲荷である。」
といって消えてしまいました。
頼朝がその老人の教えに従って兵を挙げ、
佐助稲荷神社の下社の横に小さなお堂があります。そこに「縁結び観音」として信仰されている十一面観音が安置されています。
良縁に恵まれず、諦めて出家した赤松幸運が、この世の若い男女に良縁があらんことを祈って彫った像と伝えられています。
この像は、徳川時代に足柄郡の尼寺から移されたのだそうです。
平氏を倒して鎌倉に幕府を開くことができました。
その後、家臣の畠山重忠にいいつけて探させたところ、かくれ里の西に小さな祠を見つけました。さっそくここにお宮を建てて、お宮の名前を「佐助稲荷」とつけました。頼朝が幼少のころ「佐(すけ)殿」と呼ばれていたため、
すけが助けられた稲荷であるからこの名をつけようといったからだという説もあります。禅師は佐助稲荷のお使いの白い狐を助けて、いろいろな病気が治る薬を授かったという伝説もあります。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(第13版)」より
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古びた朱塗りの鳥居が幾重にも立ち並びんでいる風景はドラマなどにも良く使われる場所で狐の石像が何体もうずくまっています。
朱(あか)い鳥居に朱い幟(のぼり)があれば、狐の像が見えなくてもお稲荷さんです。
いっぱいの鳥居、恋愛成就のお礼なのでしょうか?