勝坂遺跡の西側を下ると、「有鹿谷」と呼ばれる谷戸があります。そこから湧き出る「湧水」の脇に有鹿神社の小祠が祀られていますが、その創建はかなり古く、地域の歴史を知るうえで貴重なものと考えられます。
また、この小祠は海老名市の式内社「有鹿神社」の奥の院と言われています。「皇国地誌」には、「海老名村有鹿神社の神輿4月8日この地に渡御し、其霊璽(れいじ)を崖下の横穴に奉還し、6月14日本社へ帰興あり、此処に若干の社地があったが、明治9年廃して伐木した」とあり、海老名市の有鹿神社がご神体の石を勝坂の奥の院に預ける「水もらいの神事」が行われていました。この神事は現在も行われています。
(「新磯コンセルジュとともに」より)
「水もらいの神事」は、洞窟から湧出する霊泉が絶えることなく、鳩川に注がれることを祈ったもので、「有鹿さまのもらい水」として知られています。
この由来についてですが、二、三の文献をなどり端的に述べますと、大要次のようになります。
有鹿郷(海老名市)有鹿神社の別当総持院の住職慶雄なる者の夢枕に神が現れ、神のお托宣により「有鹿洞霊泉」が判明、この行事になったといいます。
静かなこの林に佇ち、小祠を拝し、霊泉のせせらぎに耳を傾けていると、かつての人々がお米作りに打ち込んだ熱情などが、脈々と胸打って来ます。
勝坂に「有鹿台」と呼ばれている地域があります。土地の人々の中には訛って「あるかんでえ」とも云っています。有鹿台に続く西方急傾面は、樹本が鬱蒼と茂り、さながら自然林の相をみせているので、散策などには好適の地区です。この美しい林の中にある祠が標題の「有鹿さま」です。
向かって左側の少し離れたところにある洞窟からは、いつも清水が湧出しています。清水は小堀に引かれて近接谷戸田を潤していますが、一部は西方鳩川に落ち入り、鳩川の水源となっています。
鳩川は川幅が狭く、従って水量も豊かでないので、この水系を利用して水田経営をする人々の間で、昔から水争いが絶えず、時には裁判沙汰(江戸時代)にまで及んでいました。このことは、古文書にも見えます。稲作りに水が唯一絶対なものであり、このためことわざにも「我田引水的」と云うのがあります。
有鹿神社のお祭りは4月8日でした。この日、有鹿郷(現海老名市)に住む人々は神興をかついで、延々8キロに及ぶ道を、この地有鹿まで来て、神霊を台地に奉安し一夜をすごし、神興のみを一旦有鹿神社(海老名市)に戻し、6月14日再び神興をこの地に持ち帰って、奉安しておいた神霊を格納し帰郷したと云います。
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毎年四月八日、御神体の石をここに奉遷したあと翌日神輿は海老名に帰り、六月十四日に神輿がやってきて、御神体をのせて有鹿の本社へもどった。
稲の種おろしから田植えがすむまでの二ヶ月の間、有鹿神社の神霊が鳩川の水源の一つである有鹿谷に鎮座し、海老名耕地の灌漑用水を確保した。この神事を地元では「有鹿さまの水もらい」といっていた。
有鹿神社のお祭りは4月8日。この日、有鹿郷(現海老名市)に住む人々は神興をかついで延々8キロに及ぶ道を、この有鹿まで来、神霊を台地に奉安し一夜をすごし、神興のみを一旦有鹿神社(海老名市)に戻し、6月14日再び神興をこの地に持ち帰って、奉安しておいた神霊を格納し帰郷したと云う。
この行事は、洞窟から湧出する霊泉が絶えることなく、鳩川に注がれることを祈ったもので、「有鹿さまのもらい水」として名高い。