建長寺には、7月15日に山門の下で、「梶原施餓鬼会(かじわらせがきえ)」が行われますが、それには次のような伝説があります。
開山の大覚禅師が、この寺にいたとき、一人の武士が馬に乗って来て施餓鬼が終ってしまったのを見て大変残念がっていました。そこで、大覚禅師はこの武士が帰るのを呼び返して、いま一度施餓鬼をしたところ、その武士はたいへん喜んで、
「自分は、梶原景時(かじわたかげとき)の霊である。」
と言って姿を消したということです。
そこで建長寺では、毎年7月施餓鬼が終ったあ
漬け物のたくあんは、品川の東海寺(とうかいじ)を建てた沢庵和尚(たくあんおしょう)が考え出したものといわれていますが、この人は、戦国時代に戦いで焼けた建長寺の山門や仏殿を復興するために働いたといわれています。
1775年に再建された建長寺の山門は、狸の山門ともいわれますが、これについては狸和尚の伝説が残っています。
万拙碩誼(ばんせつせんぎ)という僧が、建長寺の山門を再建しようと一生懸命に托鉢(たくはつ)をして歩きました。万拙和尚の熱心な托鉢に感激した狸が、建長寺の
と、梶原施餓鬼を行い、鎌倉時代の武将である景時の霊を慰めています。
こんな話もあります。
さといもや大根・にんじん・ごぼう・豆腐・菜など
を油でいためてつくったおつゆを「けんちん汁」といいます。大覚禅師が、野菜を料理したときに残った皮やへたなどを無駄にしないで油でいためて作った汁が今日に及んでいるといわれます。建長寺で作った建長汁が、いつか「けんちん汁」といわれるようになったといいます。
山から出てきて万拙和尚の托鉢姿になりすまし、金や米をもらい歩きました。もらってきたものはみな山門のところに置いていったということです。
いよいよ工事が始まったのですが、この年は日本中が大飢饉(だいききん)だったために、「おかゆがいただナる」というので、たくさんの人が集まってきました。そして、万拙和尚や狸に感謝して、みんながカを合わせて、心をこめて山門の土台を突き固めました。そのため山門の土台がしっかりでき、1923年(大正12年)の関東大震災にもびくともしなかったということです。
江戸時代の川柳に、
「料理人 建長寺だと なべを見せ」
というものがあります。建長寺の庭が常にきれいに掃き清められていたことから、きれいだという意味で
「建長寺」という言葉が使われたのだと思われます。禅宗では、掃除を「掃地」と書き、自分の心をみがくための修行だと考えられています。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より